HOME>世界農業遺産「能登の里山里海」ライブラリー>農林水産業>里海と漁業>多様な環境と魚種 農林水産業>里海と漁業多様な環境と魚種(1)各地域の主な漁法と魚種能登半島は、長い海岸線を持ち、沿岸の地形や環境も変化に富む。能登地域の海は、大きく5つに区分できる。閉鎖性海域である七尾湾、リアス式海岸を含む富山湾に面した能登内浦地域、日本海に面した能登北岸地域、岩礁海岸が続き、かつては北前船や外国航路で栄えた能登西岸地域、長い砂浜の海岸線を持つ千里浜地域である。能登地域では、こうした変化に富む沿岸域の地形や環境にあわせて、多様な漁業が営まれてきた。
七尾湾閉鎖性海域である七尾湾では、年間を通じて波が少なく穏やかな環境を生かして、カキ養殖やナマコ漁が営まれている。 七尾湾の西湾地域には、熊木川、二宮川の2つの主要な河川が流れ込み、カキ養殖が盛んである。
七尾西湾でカキ養殖が本格化したのは、明治時代からとされている。1970年代半ばまでは、養殖場には竹が用いられ、養殖は比較的浅瀬で行われていた。その後、ブイを用いた養殖方法に変わり、条件の厳しいところでも養殖が可能になり、養殖に取り組む漁業者も増加した。2006年には、七尾西湾地域の漁業者約60人を中心に、「能登かき養殖漁業振興会」が設立され、「能登かき」のブランド化や安全・安心なカキ生産への取組及びそれらのPRが行われている。
カキ養殖と並んで七尾湾を特徴づけるのがナマコ漁である。七尾湾で生息し、食用にされるナマコはマナマコで、体色には、アカ、アオ、クロの3つのタイプがある。ナマコは、海底の砂泥を丸ごとのみ込み、海藻片や微小生物などの有機物を消化して、栄養をとった後の砂を排泄する。そのため、ナマコには海の底質を浄化する働きもあるといわれる。
七尾湾でナマコ漁が本格化するのは、12月〜2月。ナマコ桁曳網(小型底曳網)等で採捕する。水揚げされたナマコは、港に隣接した加工場で、1つずつ丁寧に手作業で選別され、加工される。酢のもので生食されるほか、腸はコノワタ(腸の塩辛)、生殖巣は干してクチコに加工されたりしている。コノワタやクチコは、高級珍味として珍重されている。また、最近では、中華料理の高級食材として、乾燥させたナマコ(「キンコ」と呼ばれている)の需要が高まり、高値で取引されている。
写真 ブイを使用したカキ養殖 写真 ナマコの内臓を丁寧に選別する女性
能登内浦能登内浦地域は、波が比較的穏やかで、急深な地形である。回遊魚が岸の近くまで回遊するため、ブリをはじめとする多くの種類の水産物が水揚げされる。 この地域では、江戸時代から定置網漁業が行われてきたといわれ、かつては、「村張り」といって、集落の漁業者による共同経営が盛んであった。高度経済成長期には、「定置網銀座」と呼ばれるほど、大小の定置網が所狭しと設置されていたという。現在でも、石川県内には、大小約130ヶ統の定置網があるが、そのほとんどがこの海域に集中している。
定置網でとれる魚は、ブリ、マグロ、アジ、サバ、サワラ、タイ、イワシ、カワハギ、スルメイカ、カツオなどである。能登内浦地域は、冬季も波が比較的穏やかなため、年間を通じて定置網漁が行われている。
珠洲市蛸島地区の周辺では、小型底びき網漁が行われ、カニ、アマエビ、ハタハタなどがとれる。漁は、一艘曳きによる「かけまわし」という方法で行われる。漁業者は、「すずし小型機船底びき網組合船団」という組織を形成し、出漁日や網の目の大きさなどを統一し、船団ぐるみで漁業資源の管理に取り組んでいる。こうした努力もあり、漁業経営は安定傾向にある。
能登北岸輪島市海士町は、海女漁が盛んな地域である。海士町の海女たちは、輪島港の北方約50kmにある舳倉島に拠点を置き、アワビやサザエ、海藻などを採捕している。常時、40〜50 人が同島周辺で漁をし、ピーク時(7月〜9月)には、およそ80 人が島に滞在して漁に従事する。この他にも、船の性能向上とともに、渡島せず、輪島側から「通勤」して漁をする海女も増えている。
現在、10代から90代までの海女がいるが、海女になることができるのは、海士町に生まれた者か、嫁いできた者だけである。このようにして海士町固有の文化が形成されるとともに、海女漁の技術が代々継承されている。海女漁で採捕された水産物は、朝市や振売(ふりうり:商品を持ち歩いて売る形態)で販売され、一部は、「輪島海女採りあわび」「輪島海女採りさざえ」として、近年、ブランド化がはかられている。 平成30年(2018年)3月8日に、「輪島の海女漁の技術」として、国の重要無形民俗文化財に指定された。
写真 舳倉島の海女
能登西岸能登西岸地域は、古くから北前船の要港であった。戦後も志賀町(旧富来町)福浦港周辺は、外国航路の寄港地であった。そのため、この地域の人々は、商船会社に就職し、定年後に半農半漁という形で漁業に従事するというスタイルが多かった。こうした就業形態は、1960年代半ばにピークを迎えた。
他方、この地域は岩礁地帯であり、良質な海藻類が採集される。志賀町(旧富来町)福浦では、イワノリのなかでも最高級のウップルイノリが育つ。イワノリは、岩場または波がかぶる高さにコンクリートで造成した「ノリ島(あるいはノリ場などと呼ばれる)」で採集される。また、ワカメ漁も盛んで、ほとんどが天然物である。口コミで評判が広まり、販売量は多くはないものの、個人で販売する人も少なくない。金沢市や、時には県外からの注文もあるという。
千里浜千里浜は、遠浅の砂浜海岸である。そのため、採貝や地曳網に適している。地引網の漁期は、網の大きさで異なるが、12 月までとなっている。ただし、12 月には海が荒れてくるため、凪の日を選ばなければ漁はできない。網は、大きなものでは長さ1km、深さ15m にもなり、網を上げる際には、機械が使われる。しかし、最終的には人の力が必要で、20 数人が共同で作業を行う。アジ、スズキ、タイ、サワラが主にとれる。
写真 千里浜(羽咋市提供)
(2)背景(現状〜経緯)時代とともに漁に使用される漁具は変化してきた。例えば、1960〜70年代までは、定置網の道網(垣網)の部分は稲ワラで、中心部の網の部分は絹の糸で作られていた。時代とともに化学繊維が取って代わり、網は丈夫となり、安定的な漁獲量の確保が可能となったが、反面、以前は網が切れて底に沈んでしまっても環境に影響はなかったが、化学繊維でできた網は分解されず海底に残ってしまうため、漁場が悪化しているのではないかという指摘もある。
船の性能も向上している。前述のとおり海女たちは、かつては漁のため、夏季に一斉に舳倉島に渡島していた。そのため、1960〜80年代あたりまでは、島は賑わっていたが、現在では、本土に定住して、船で島まで通う「通勤」スタイルがおよそ2/3を占めている。
近年では、船の装備も高度化しており、衛星の船舶電話、自動操舵、レーダー、魚群探知機、GPSなどを装備している船もある。以前は、船の位置や漁場のポイントは、周囲の景色や目印となるものを頼りにしていたが、GPSを使用すれば、船の現在地を正確に測れるほか、良好な漁場を記録しておくことができる。魚群探知機も同様である。かつては、地形などからポイントを推測していた。また、冷凍・冷蔵施設を備えた船の登場により、遠方への漁も可能となった。
漁港の整備も進み、接岸や荷揚げがしやすくなった。しかし一方で、港湾整備や護岸工事により、潮の流れが変わり、部分的に海の環境が変化したという声もある。
(3)生物多様性との関わり能登地域では、約600種類もの魚が生息しており、そのうち約250種類が、食用などで利用されている。個々の資源量は、必ずしも多いものばかりではないが、生物多様性に富んだ海域といえる。 しかし、近年では、温暖化に伴う海水温の上昇のためか、漁獲される魚の種類が変化している。1980年代には、タチウオやスルメイカ、90年代にはイワシが多く漁獲されていたが、現在では減少傾向にある。一方で、南日本が生息域であったサワラの水揚げが、近年増えている。
資源管理や資源回復の取組も行われている。定置網漁では、網目の大きさが外側の網ほど大きくなっており、網目より小さな魚は逃げられるようになっている。また、定置網漁は「待ちの漁法」であるため、魚を獲り尽くす危険性が低く、持続可能な漁法といわれている。
漁業者で組織的に資源管理を行っているところもある。珠洲の小型底びき網漁では、「すずし小型機船底びき網組合船団」に加入する漁業者全員が、休漁日や休漁期間を統一している。休漁日は、天候や波の高さなどの気象情報を見て、船団長が前日の夕方までに判断し、船団員に連絡する。また、漁に使用する網の大きさも統一し、小さい魚をとらないようにしている。
輪島の海女漁では、アワビの漁獲量が1983年の約39トンをピークに、2007年には約4トンにまで減少したため、アワビやサザエ漁において、@漁具の制限 A操業期間および操業時間の制限 B殻長制限 C禁漁区域の設定等の取組が行われている。また1970年代からは、サザエやアワビの種苗放流が継続的に行われている。
魚介類が生息しやすい環境を再生する試みも行われている。七尾湾でのナマコの漁獲量は、1960年代には1,000トン以上あったが、現在では300トン台に減少しているという。前述のように、ナマコの需要は増加傾向にあり、資源回復が急務である。七尾北湾の穴水町新崎海岸では、ナマコの資源量を回復するための取組が行われている。
ナマコは水温の低い冬季に活動し、水温の高い夏は、石の隙間などで「夏眠」する。「新崎・志ヶ浦地区里海里山推進協議会」と「のと海洋ふれあいセンター」が、同地の画一的な人工海岸に自然石を投入し、多様な環境を作り出したところ、夏眠するナマコの姿などが確認されるようになった。こうした取組の効果は、長期的な検証が必要であるが、護岸工事などが進行して海岸の環境が画一化される中、多様な生物のすみかとなる多様な環境を再生していくことの大切さを示唆しているといえる。
(4)里山との関わり能登半島は、三方を海に囲まれ、丘陵地が多く、平野が少ないため、山・里・海が近接している。能登では、里山と里海は、川の流れや人々の暮らしにより密接につながり、一体となって広がっている。また、カキ養殖や海藻の成長には、陸域からの栄養分の流入が大きく影響しているほか、魚付林として海岸沿いの林を大切にする漁業者も多い。 人々は、山で山菜やきのこをとり、田んぼで米を作り、刺し網で魚をとるなど、里山里海双方のめぐみをうまく利用し、半農半漁の生活スタイルを続けてきた。また、かつては冬季に出稼ぎに行く者も多かった。
(5)特徴的な知恵や技術伝統的な漁法―ボラ待ち漁日本最古の漁法ともいわれ、高さ6メートルほどのやぐらの周囲25メートル四方に網を張りめぐらし、やぐらの上からボラの群れが網に入るのをじっと待つ。能登地域でも穴水湾固有の漁である。江戸時代から同湾一帯で盛んに行われ、当時の最盛期には、1回で100匹前後がとれたという。しかし、ボラの減少や長い時間と労力を要する漁法であることから、戦後、次第に姿を消した。穴水町内浦の女性が漁を行っていたやぐらが一基だけ残り、観光客の人気を集めていたが、1996年の秋を最後に、高齢や人手不足を理由に漁が断念された。ボラ待ちやぐらは、その後、穴水湾のシンボルとして人々に親しまれている。
近年、穴水町では、ボラ待ち漁を復活させる動きが相次いで起こっている。同町の「新崎・志ヶ浦地区里海里山推進協議会」では、平成24年度(2011年)、地域づくりの一環として、地元の里山整備で生じたアテの間伐材を用いて、ボラ待ちやぐらを復活させ、最後までボラ待ちやぐらで漁を続けていた女性のもとに通い、ボラの習性や漁の技術を学び、漁を再開した。また、穴水町では、各地での漁の再開にあわせ、町内でのボラ料理の提供の準備を始めている。
<出典・参考>
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