世界農業遺産「能登の里山里海」ライブラリー
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景観

外浦の景観

1)概要及びGIAHS的価値について

 外浦の海岸は、波が荒く、海食による断崖が続き、奇岩や断崖から成る景勝地「能登金剛」や「波の花」など、厳しい自然現象により生み出される独特の景観が見られる。冬季は、シベリアからの季節風が強く吹きつけるが、沿岸を暖流が流れているため、内陸山間部に比べ、比較的温かく、積雪量も少ない。

 

 外浦に見られる「白米千枚田」や「揚げ浜式塩田」、「間垣」などは、住民が厳しい自然環境を生き抜く中で、長い時間をかけ、作り出された景観である。過疎・高齢化に悩みながらも、今なお、農林漁業を中心とした里山里海の暮らしが、この独特の景観を維持している。

 

 能登には、黒瓦の屋根と下見板張りの伝統的な住居が多く、統一感のある景観と独特の風情を生み出している。黒瓦は、「能登瓦」とも呼ばれ、材料に能登の水田の土を使い、山の薪を燃料にして、七尾市や珠洲市などの農村地帯で生産されてきた。黒あるいは銀黒の美しい釉薬で覆われた能登瓦は、耐寒性に優れるといわれている。輪島市の黒島(旧門前町)や鵜入などは、能登瓦の民家がまとまって見られる集落の代表である。


 外浦を代表する景観として、輪島市白米町の千枚田、珠洲市仁江・清水海岸の揚げ浜式塩田、輪島市大沢・上大沢の間垣景観などがあげられる。外浦に面する海岸沿いの急峻な傾斜地を切り開いた「白米千枚田」では、千を超える小区画の水田からなる棚田景観が見られる。揚げ浜塩田での塩づくりは、現在、能登でしか見ることができない。この景観は、外浦の荒々しい岩礁地帯のわずかな平坦地を利用し、里山と里海の恵みに支えられ発展した、長い歴史を持つ生業により作りあげられた。間垣景観は、輪島市大沢、上大沢など、外浦に面して立地する集落に特有に見られる。厳しい季節風に対する、独特の構えの気候景観であると同時に、地域の資源をうまく利用した里山里海の景観ともとらえることができる。

 

 志賀町以南の口能登エリアは、能登半島基部とはまた異なった里山里海の景観をみせる。注目すべき景観としては、志賀町のころ柿、羽咋市神子原(みこはら)の棚田があげられる。


 

2)背景(経緯〜現状)

@輪島市白米町の千枚田

 外浦は、300m前後の山々が尾根を連ね、急傾斜のまま日本海に落ち込む。水田適地を持たない外浦の住民は、このような海岸沿いの急峻な傾斜面を切り開き、水田とせざるを得なかった。奥能登最高峰の高洲山(標高567m)の山麓一帯の海岸地帯は、大きな地すべり地帯を形成している。このような地滑り地帯は、比較的水が豊富で、土壌的にも稲作に適していることから、急斜面に沿って階段状に耕作され、幾重にも連なる畦が幾何学模様を描く、独特の棚田景観が作り出された。棚田が海岸近くにまで及ぶ、輪島市白米町の「白米千枚田」は、その代表である。

 

 白米では、標高1〜60m、傾斜1/4の斜面に、水田がひらかれ、集落背後の標高80〜110mの斜面には、畑がひらかれている。集落は、畑と棚田の間の湧水がある標高70m付近に立地している。背後の山林は、主にコナラ林や落葉低木林が広がり、スギの植林地もみられる。


  


説明: 図5

図U-7-5  白米千枚田の景観パターン

 

 

 「白米千枚田」は、能登の代表的な観光資源として、古くから全国に名を知られ、昭和31(1956)年には、輪島市文化財指定名勝に指定された。生産調整が行われた1970年代には、平地との生産費の差を補償し、観光資源として保存することとなり、耕作者と市との間で、休耕や原形を変更しないことを主体とする契約が締結された。現在、全国の棚田の中で、一枚当たりの面積が最も小さく(平均面積18〜20m2)、日本を代表する棚田として、平成13(2001)年、国指定文化財名勝の指定も受けた(枚数1004枚、面積40,051m2)。

 

 一方、急傾斜・小面積の水田での米づくりは、機械による効率化が難しく、人力に頼らざるを得ず、作業に手間ひまがかかり、重労働となっている。後継者不足と高齢化により、地元農家だけでは、耕作を続けていくことが難しくなっている。平成18(2006)年には、白米町近隣の農家が「白米千枚田愛耕会」を組織し、一部の耕作を行うとともに、翌年には、白米千枚田オーナー制度も始まった。そのほか、ボランティアの支援なども受けながら、耕作が続けられ、景観が保全されている。

 

A珠洲市仁江・清水海岸周辺の揚げ浜式塩田

 珠洲市を中心とする外浦の沿岸では、海岸の荒磯に石を組んで築いた塩田の景観が見られる。外浦の塩田は、中世から近世に稼働し、寛永年間(1624〜1643年)には、加賀藩の専売制の下に置かれるようになったといわれ、製塩業が、加賀藩の重要な産業であったことを示している。慶長元(1596)年には、仁江谷内浜(珠洲市)において製塩が行われていたとの記録も残っており、千枚田で有名な輪島市白米でも、寛永期には製塩が行われていた。しかし、明治38(1905)年の塩専売制法施行により、塩田は急激に減少した。

 

 昭和33(1958)年の臨時塩業措置法により、珠洲市の角花家のみの操業となり、角花家の揚げ浜式製塩の技術は、平成4(1992)年、石川県の無形民俗文化財に指定された。日本海を背景に、全国で唯一の揚げ浜式塩田、塩水を焚いて製塩を行う伝統的な茅葺き屋根の釜屋などが展開し、貴重な景観となっている(文化的景観報告書)。「能登の揚げ浜式製塩の技術」は、角花家を中心とする保存会「能登の揚げ浜式製塩保存会」により、技術が代々伝承されている。

 

 平成9(1997)年には、塩専売制度が廃止され、塩の製造、販売などが自由化された。1990年代以降になると、地域おこしや観光のため、かつて製塩業に従事したり、見聞きして育った、製塩風景に愛着のある地元の人たちが中心となり、「奥能登塩田村」など、塩田の復活が相次いだ。現在は、揚げ浜式のほか、流下式などでの製塩も行われている。

 

 塩田景観は、かつては、奥能登の外浦と内浦の沿岸一帯で見られた。断崖が多く、波風が荒く、浸食が早い外浦より、海の穏やかな内浦の方が塩田には向いていたが、外浦は、耕地が乏しく、他の産業が発達しづらかったことなどから、歴史的に最後まで揚げ浜式塩田の景観が残されたと考えられている。

 

 能登の塩田は、海岸の磯浜に、満潮水面よりやや高い所に石垣を築き、その内側を石や粘土で埋め、砂利を敷き、平らにし、その上に細かい砂を撒いて、突き固めて作った。潮の干満差が少ない能登の海岸ならではの技術でもある。砂は、かつては、能登に数ヶ所あったとされる製塩に適した砂浜から「砂取り舟」で運んだ。粘土も周辺の山から採取し、利用した。製塩は、春から夏にかけての労働作業である。揚げ浜式では、人力等によって汲み上げた海水を、何度も塩田に撒くことで、濃塩水をつくり、それを塩釜で焚いて塩をつくる。

 

 現在、珠洲市の外浦で、景観パターンとしてよく見られるのは、海岸沿いの塩田、国道249号に沿って、小規模な水田や黒瓦と下見板による伝統的な民家の密集する集落である。背後の高台には畑がひらかれ、さらに背後には、コナラやアカマツが生える丘陵地性の山地が広がる。また、急斜面の風衝地の山地には、天然のケヤキ林が広がっている。

 

 かつて、塩田を築くには、豊富な木材資源のある里山が近くにあることが不可欠であった。そのため、背後の山地は、塩田と深いつながりがあった。「釜焚き」は、大量の燃料を必要とし、製塩用の燃料は、「塩木(しおぎ)」と呼ばれた。塩田所有者の多くは、山の所有者でもあり、製塩のための燃料を山から調達していた。


B輪島市大沢・上大沢の間垣景観

 外浦に位置する輪島市西保海岸付近の集落では、冬季の強い季節風をさえぎるため、集落の周囲に、「間垣」(まがき)と呼ばれる防風垣根を巡らせている。強風地域特有の景観であり、厳しい気候風土から生まれた、能登の外浦を代表する景観のひとつである。

 

 間垣は、長さ5m程度の細いニガタケ(メダケ)を、葉のついた先端を上に向け、隙間なく並べたもので、冬の強風だけでなく、夏の西日をさえぎる効果もある。主に、入江に面する民家の周囲に見られるが、その数は減少しており、まとまった間垣を有する集落は、現在では、大沢、上大沢地区など、輪島市内の4か所程度だといわれる。

 

 大沢、上大沢地区の集落は、小河川が海に注ぐ河口にできた低地に位置する。集落が面する海岸線は、湾となっており、港としても利用されている。海岸のほか、谷の入り口にも面しているため、冬季の北西季節風に直接さらされる。集落周辺には、水田が広がり、河川に沿って上流まで分布する。水の便の悪い台地には、畑がまとまって作られている。間垣は、海に面する民家を守る城壁のように設置されており、間垣に囲まれた集落は、海・水田・山林といった周辺の里山里海と一体となった、まとまりのある集落景観となっている。

 

 また、集落は、海に面する以外の三方を、山に囲まれており、山には、二次林や植林されたスギ、アテのほか、クロマツが生えている。広葉樹二次林の構成樹種としては、ケヤキ、クヌギ、コナラ、カシ類、クリがみられる。ケヤキは、かつて、大沢地区の家内工業であった輪島漆器の木地製作用の原木として利用されていた。クヌギやコナラ、カシ類、クリは、薪炭材として利用されていた。間垣の材料となるニガタケは、川岸や田畑の脇、山林の斜面に生育している。ニガタケは壁の材料、クリやアテは支柱、藤蔓は採取したニガタケや間垣の結束にと、間垣の材料は、すべて集落の里山から調達されたものであり、この点からも、間垣景観は、まさに、里山里海の育んだ景観であるといえる。

 

 近年では、高齢化により、ニガタケの採取や維持管理に係る人員の確保が難しいため、板やブロック等の手間のかからない材料を用いて防風垣根が作られるようになっている。輪島市では、間垣の伝統的な集落景観を守るために、補助金制度を設けている。

 

 

 

図U-7-6間垣の景観パターン

説明: 図6

C口能登エリア

・志賀町のころ柿

 能登半島南部の眉丈山山麓に広がる丘陵地帯は、「ころ柿」と呼ばれる干し柿の産地として知られている。この地域は、晩秋から初冬にかけて、寒暖差が大きく、気候条件が干し柿づくりに適していたことから、能登の自生種で、大粒の「最勝柿」を使った干し柿生産が、農閑期の副業として盛んに行われてきた。特に、志賀町下甘田及び加茂地区では、ほとんどの農家が、干し柿の生産に携わっている。近年は、品質向上を図るため、屋内の乾燥場が使用されるようになり、柿を軒先に吊り下げる独特の景観も減った。

 

・羽咋市神子原(みこはら)の棚田

 能登半島の邑知地溝帯の南側には、石動山地の山並みが連なり、その中の碁石ヶ峰(461m)の西麓は、急斜面で、邑知潟(羽咋市)に向かい、急流河川が流れ込み、泥岩層が堆積し、地すべり地帯となっている。この標高120〜400mに広がる丘陵地帯には、神子原(みこはら)町(羽咋市)の棚田景観が見られる。神子原地区で生産される米は、豊富な雪解け水と寒暖の差、古い圃場と腐葉土分が多い土質により、粘りがあり美味しいといわれ、「神子原米(みこはらまい)」としてブランド化されている。

 

3)特徴的な知恵や技術

@千枚田の維持管理

 輪島市白米町の「白米千枚田」が築かれた地形は、石英粗面岩を主成分とする海食崖が随所に展開し、それらを縫うように急峻な傾斜面が広がる地すべり地帯であり、水田や用水を築き、水源地から水を引くには、高度な農業土木の技術が必要である。棚田は、米の生産の場であるとともに、地すべりなどの災害を防止する機能も同時に果たしてきたともいえる。

 

 白米の主要なかんがい用水である谷山用水とサソラ用水は、辰巳用水を築いた板屋兵四郎により、寛永9(1632)年以前に開削されたと考えられている。17世紀前半は、加賀藩により田地開発が奨励され、外浦一帯では、新田開発が盛んに行われた。谷川用水とサソラ用水は、小富士山(424m)の北、東斜面を水源とする小河川から引水している。用水が築かれることで、海岸にまで至る棚田の開拓が可能となった。

 

 しかし、地すべり地帯でもあったことから、耕作者には、棚田を維持するために、棚田特有の田直し(地すべりにより亀裂の入った田面や崩れた水田を直す作業)、畦づくり、畦塗り、クリ(法面)や畦の草刈り、水管理など、さまざまな労働が強いられることとなった。昭和59(1984)年の農業日誌には、「白米の千枚田」の農作業の特質として、耕地面積に比べ、労働日数が極めて多いこと、それに加え、1日の作業時間が長いこと、平坦地の水田に比べ、農作業の種類が多く、労力がかかることなどが挙げられている。田直しは、地区内に集水井戸が設けられるなど、地すべり防止対策が行われて以降は、ほとんど必要がなくなったが、かつては、毎年、田づくりの作業が始める前に、各農家で行われていた。

 

 千枚田の水管理は、現在も、田越かんがい(田から田へ、畦の一部を切って水を落とすかんがい方法)によって行われている。水の落口は、ミトと呼ばれている。そのため、水田は、平均50cmほどの段差をもって配列されている。水管理は、ミトが壊れていれば直し、油紙や堆肥袋を置いてまわる作業となるため、大変な労力を要する作業である。

 

A間垣の補修技術

 間垣は、強風の影響により、一年間で激しく痛むため、毎年補修作業を行う必要がある。補修は、全体を一度に行うのではなく、痛んだ箇所を選び、毎年行う。毎年ニガタケを追加していくため、間垣は自然に厚くなっていく。現在の厚さは、20cm程度であるが、以前は、1尺(約30cm)もあったという。毎年、手を抜かず、きちんと手入れをすることが、きれいな間垣を保つためには大切とされる。

 

 補修作業の内容は、痛んだニガタケの交換と、腐ってきた支柱の交換である。敷地内の補修は、各家で作業することが基本であるが、輪島市上大沢では、集落の秋祭り(11月23日)前に、集落総出で、集会所と神社の間垣の補修を行う。

 

 作業手順は、@集落周辺の山林や河川敷、田畑の脇でニガタケを採取する、A痛んだニガタケを間垣から取り除き、採取したニガタケの形や長さを補修個所に合わせて整える、B間垣に梯子を立てかけ、ニガタケを上から一本ずつ差し込む。1人でもできるが、夫婦や親戚など2、3人で行うと効率がよい。

 

  ニガタケの採取時期は、稲刈りが終わった9月以降に行う。秋の八専(はっせん)の時期に採取したニガタケは、虫が入りやすく腐りやすいといわれており、その時期は避ける。支柱に使用する木材の採取も、八専の時期を避けるように行われていた。支柱には、かつては、クリ材が用いられていたが、現在は手に入らないため、アテ材が使われている。

 

 間垣に用いられている結束方法は、上大沢地区では、「ツノ結び」(一般的には男結び)と呼ばれている。現在、結束に使用する材料は、ロープや針金が主流であるが、かつては、藤蔓が使われていた。ニガタケには、油が多く含まれているため、火事の際、一気に火が燃え広がる恐れがあるため、すぐに間垣を解体し、延焼を防げるように、切断しやすい藤蔓が好まれたという。藤蔓は、毎年採取していれば、結束に適した柔らかい蔓が維持できるが、最近は、採取されなくなったため、集落周辺にある藤蔓は、結束に不向きな堅いものばかりになってしまったという。

 

 間垣を維持するためには、人々の協力や技術が必要である。上大沢では、自分の家の間垣は、自分の家で守るという考え方により、補修技術の伝承は、各家で父親が息子を手伝わせることで守っている。

 

4)生物多様性との関わり

@ため池(希少種の生育地)

 平成23(2011)年、外浦に面する輪島市西保地区のため池で、42年前、金沢市北間町で確認されたのを最後に絶滅したと考えられていた「オニバス」が発見された。オニバスは、石川県の絶滅危惧T類、国の絶滅危惧U類にもなっている貴重な水生植物である。

A外浦にみられる藻場

 藻場は、沿岸域の生物多様性を支える礎である。外浦の海岸では、冬季の強い波浪のため、垂直に切り立った岩肌や波浪の影響が直接およぶ岩礁地帯では、ツルアラメ(能登では「かじめ」と呼ぶ)が優先種である。

 

 

七尾市史編さん専門委員会編集(2003)
藤川(1973)pp.27-28
石川県輪島市(2003)
藤川(1973)pp.27-28
白米千枚田パンフレット 及び 文化庁文化財部記念物課(2005)p.92
北國新聞記事、2012年1月31日朝刊
石川県輪島市(2003)
石川県輪島市(2003)
石川県(2010)p.57
石川県輪島市(2003)
石川県(2010)pp.57-73
吉川・矢沢(1955)pp.18-19
荒井ら(2009a)pp.140-143
荒井ら(2009a)pp.140-143
文化庁文化財部記念物課(2005)p.256
文化庁文化財部記念物課(2005)p.256
羽咋市史編さん委員会(2008)
石川県輪島市(2003)
荒井ら(2009b)pp.144-147
陰暦において干支が同性になる日。一年に6回あり、年によって期間は前後する。その期間は雨が多いとされる。仏事や収穫、伐採を避けることがよういとされる
燒リにより「石川県立自然史資料館研究報告第2号」(2012年3月発行)に発表予定
日本の里山・里海評価―北信越クラスター(2010)p.36