HOME>世界農業遺産「能登の里山里海」ライブラリー>伝統技術>伝統工芸や伝統技術>里海の伝統技術 伝統技術>伝統工芸や伝統技術里海の伝統技術(1)概要及びGIAHS的価値について能登の里海の代表的な伝統技術として、揚げ浜式製塩が挙げられる。珠洲市を中心とした外浦の海岸線では、農耕地が乏しく、農民により塩づくりが生業として続けられてきた。この伝統的な塩づくりの方法は、国内では珠洲市のみに継承されており、平成20(2008)年には、珠洲市角花家の「能登の揚げ浜式製塩の技術」が、国の重要無形民俗文化財に指定された。
産業としての製塩は、明治38(1905)年の塩専売制の実施、製塩の近代化などにより、一時途絶えたものの、平成9(1997)年、専売制が廃止されたことで、地域の特産品づくりとして、揚げ浜式の塩づくりを復活する動きが盛んになった。
塩づくりにおける技術者である「浜士(はまじ)」は、先代から教わった知識をもとに、自ら経験を積み、技術を習得する。揚げ浜式製塩の原料は海水であり、里海と非常にかかわりが深い産業であるが、窯焚きの燃料となる薪も計画的に調達する必要があったことから、里山ともかかわりを持つ。浜士は、里山里海の変化を敏感に感じとりながら、塩づくりを行ってきた。 写真 塩田風景(角花家) 釜焚き
(2)背景(経緯〜現状)石川県の海岸沿いの地域における製塩の歴史は、約2千年前に遡る。考古学調査によると、古墳時代(250〜583年)には、能登半島は瀬戸内地方と並び、製塩の中心地であった。
江戸時代には、「入浜式」と呼ばれる、砂に塩分を付着させるために、塩の干満を利用して塩田に海水を引き込み、かん水を採取する方法が発明され、作業の省力化がはかられたが、能登では「揚げ浜式」が継続した。「揚げ浜式」は、砂の上に人力で海水を散布し、天日で水分を蒸発させてかん水を採取する、重労働をともなう方法であるが、能登では、平地が限られる等の地形条件に加え、気候条件、さらには、潮の干満の差が少ない等の自然条件のため、「揚げ浜式」が継続したと考えられる。
藩政期になると、加賀藩は、製塩を藩の専売下におき、「塩手米」という制度で能登の製塩を奨励した。「塩手米」は、藩が前もって塩生産者に米を貸与し、一定の割合で塩に換算して上納させるという制度である。幕末から明治にかけては、能登の塩田の生産高は2万トンを超え、最盛期を迎えるが、明治38(1905)年に塩専売制が実施され、大規模な塩田整理が行われ、昭和4(1929)年には2千トンにまで落ち込んだ。
その後、国内の塩製造は工業化され、能登の塩田は葉タバコ畑に姿を変え、さらにその一部は道路になったが、平成9(1997)年、塩専売制度が廃止され、塩の製造、流通・販売、輸入が自由化されたことにより、揚げ浜式製塩による塩の良さが見直され、消費者ニーズも高まり、塩田が次々と復活した。
珠洲市角花家では、約100坪の塩田から年間1.2トンの塩を生産している。観光客向けの体験事業も行う「道の駅すず塩田村」では、400坪の塩田から年間約8トンの塩を生産している。角花家では6代目となる後継者が、塩づくりに取り組んでおり、「すず塩田村」でも後継者が弟子入りするなど、製法や技術の伝承が行われている。 写真 すず塩田村
(3)特徴的な知恵や技術揚げ浜式製塩の工程は、大きく分けて4工程ある。粘土質の土の上に砂をまいた塩田に、海水をまき、太陽の熱で水分を蒸発させ、塩が付着した砂をかき集め、ろ過し、塩分濃度の高い「かん水」を作り、釜で煮詰めて塩をつくる。
角花家では、1回の釜焚きのために、3500〜4000リットルの海水を汲みあげ、540リットルのかん水を作り、190kgの薪を焚いて、90〜100sの塩をつくる。各工程では、昔からの伝統的な道具が用いられている。そのほとんどは手作りであり、壊れたら補修し使用する。
表U-4-1 揚げ浜式製塩の製造工程
自然の力を利用するため天候に左右される揚げ浜式製塩では、天候を読む力が必要となる。雲の動き、波の形から、水分の蒸発具合を予想し、汲んでくる海水の量や砂の厚さを調整する。天候を読めるまでには、10年程度を要するといわれる。
また、「潮くみ3年、潮まき10年」といわれるほか、きめ細かい塩を作るために、釜焚きの際、火の強さを調整する技術も必要である。さらに、まろやかな塩を作るためには、ニガリ分が混ざりすぎないよう、焚きすぎないことも重要である。こうした判断や知恵は、先代から伝授されるだけでなく、個人の経験により培われていく。
(4)里山との関わり浜士は、海水を汲みに海に入るため、里海の変化を直接に感じとる。近年、海水の温度が上昇し、珠洲市仁江海岸でも、まれに赤潮が発生するようになったという。
また、「塩田は山にあり」といわれるように、古くから里山とのかかわりも重要視されてきた。窯焚きの燃料を確保するため、山林が持続的に利用できるよう、里山の資源管理も欠かせなかった。能登の塩田は、海と山が近接しており、塩田の持ち主の多くは、田畑や山林を所有していた。塩田作業が終わると、毎日のように裏山に燃料となる薪をとりに入り、その通った道は「塩木の道」と呼ばれた。その後、安く手に入る建築廃材を燃料として使うようになったが、近年は再び、間伐材などの里山の資源を利用することで、里山の保全をはかっていこうとする取組も始まっている。
<参考文献>1)小澤利雄(2000年)『近代日本塩業史』大明堂
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