世界農業遺産「能登の里山里海」ライブラリー
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伝統技術伝統工芸や伝統技術

伝統工芸

1)概要及びGIAHS的価値について

@輪島塗

 能登の冠婚葬祭のハレの日における食器は、輪島塗である。堅ろうな膳椀などの食器、特に「堅地の朱家具」がその代表である。仏事には朱塗り(五十回忌の法事だけは黒塗り)、慶事には黒塗りを用いる。

 

 輪島塗は、信仰心が厚く、ものを大切にする農山漁村の家における財産として、長期の使用に耐える丈夫さが求められてきたため、堅ろうに作られており、何代にもわたり揃えられることも多い。黒塗りは、「黒家具」といい、朱塗りの「朱家具」と同様の揃いになっているが、人々は、特に「朱家具」を揃えるように平素から心がけているため、朱家具ほど各家には揃ってはいない。

 

 これらの漆塗りの家具を用いるのは、ハレの日でも、結婚式(黒)、法事(朱)、報恩講(朱)、葬式(朱)ぐらいで、それ以外のハレ日の食器は、日常と変わらない。また、法事の主客である僧侶の食器には、特に、朱塗りの懸盤(かけばん)か蝶足膳(ちょうあしぜん)を用いることが多く、かつては地主などから借りていた。

 

 輪島塗は、厚手の木地に布を貼って補強し、生漆、米糊、焼成珪藻土を混ぜた下地を何層にも厚く塗り、「丈夫さ」に重きをおいて作られる。そのため、75回以上の漆塗りの手数と、120日以上の製作日数を要し、高価なものとなっている。

 

 1975(昭和50)年には、通商産業省(現:経済産業省)の伝統的工芸品に指定された。さらに、1977(昭和52)年には、工芸史上特に重要な位置を占め、かつ地方的な特色が顕著であり、芸術上の価値も高いとして、重要無形文化財に指定されるとともに、各工程を代表する技術者や学識経験者により構成された「輪島塗技術保存会」が、重要無形文化財技術保持団体に認定された。


  

 写真    輪島塗「黒家具」          輪島塗「朱家具」

 

A能登上布

 能登上布は、中能登町や羽咋市の農村において、女性の冬仕事として製織されてきた麻織物である。夏の衣料としては最高級品と称され、軽く、通風性に富む。明治以降は、独特の櫛押捺染(くしおしなっせん)や板〆、ロール捺染、型紙捺染などのさまざまな手法を取り入れている。亀甲絣や十文字絣、横惣(よこそ)、縮などが生産されている。

 

 特に、織り幅に十文字絣を120個から140個織り出す「絣合わせ」の正確さは比類がなく、1960年(昭和35)には、石川県の無形文化財に指定された。

 

 

2)背景(経緯〜現状)

@輪島塗

 輪島塗の起源については、紀州根来寺の僧が輪島重蓮寺に来て什器類を作ったとする説や、地元の福蔵が根来に行き技術を習ってきたとする説、さらには合鹿椀発展説などがあるが、いずれも断定するまでには至っていない。

 

 1672(寛文12)年の『加賀往来』には「輪島朱椀」と記載されており、輪島塗が本格的に生産され始めたのは、江戸時代の寛文年間からと考えられている。最古の輪島塗は、重蔵神社の大永年間社殿建て替え時の「本殿漆塗扉」で、1524(大永4)年の銘がある。遺品ではないが、同神社の1476(文明8)年の棟札には「塗師三郎次郎定吉」の銘があり、輪島塗の起源は、室町時代まで遡ることができるといえる。

 

 1713(正徳3)年に書かれた『重蔵宮御輿補修記』には、「塗師棟梁岡野屋久八郎」以下24人の連名が見られ、江戸時代の塗師の状況を知ることができる。また近年、穴水町の西川島遺跡から15世紀の線刻椀が出土し、輪島塗の特徴である沈金や塗りの源流を考えるうえで注目されている。

 

 輪島塗の繁栄・発展にはいくつかの要素があるが、まず挙げられるのが下地に使う「地の粉」である。寛文年間に発見された「地の粉」は、珪藻土の一種で、焼いて粉末にし、生漆と混ぜて使うことによって、剥がれない丈夫な漆器ができる。木地の木口に布を張る「布着せ」も堅ろうな漆器づくりには不可欠な要素である。さらに、流通においても、生産者が全国の顧客を訪ねて直接販売し、同時に修理などのアフターサービスも行う独特の販売方法を確立した。

 

 輪島塗の品質、名声は、江戸時代後期には、すでに広く世の認めるところとなり、全国の富裕な農家・町家を顧客に、生産量は飛躍的に伸展した。明治維新時においても衰退することがなく、かえって、会津、名古屋、金沢などから蒔絵技法を吸収し、新興の中産階級の需要を開拓し、成長を続けた。

 

 昭和初期からは、沈金技法で人間国宝の指定を受けた前大峰をはじめ、大勢の漆芸作家を輩出し、美術工芸的傾向も強めた。しかしながら、近年、ライフスタイルの変化による消費者の漆器離れが進み、輪島塗関連の事業所は、全盛期の1990年頃に比べ、現在ではその1/3が廃業している。また、経営難により、若い後継者の育成が滞り、技術伝承も厳しくなっている状況にある。

 

A能登上布

 約2千年前、第10代崇神天皇の皇女が鹿西町(現:中能登町)に滞在した折に、『真麻の上布を作ること』を地元の人に教えたのが始まりといわれている。能登は、古くから苧麻(からむし、ちょま)の生産地として知られていた。

 

  元和期(1615〜1624年)と推定される能登部下『乗念寺文書』の鹿島郡二十日講中からの志納に「白麻布」とあるのが文献上の初見である。正徳期(1711〜1715年)以降、藩の保護を得て普及し、享保期(1716〜1735年)以降は、安部屋港(現:志賀町)から移出されたため「安部屋布」、文化期(1804〜1818年)以降は「徳丸縮」と称した。安政年間(1854〜1859年)には、越後商人が多く往来する交通路であった能登部村に市場が移った。

 

 明治10(1877)年、能登製布会社が創立されて以降は「能登上布」と称して宣伝された。翌年、原糸を柏崎・小千谷地方から移入、明治21(1888)年、大西理助が薩摩上布風に改良、明治35(1902)年、谷兵衛門が亜麻紡績糸を絣糸(かすりいと)に使用、大正7(1918)年、経糸(たていと)に亜麻、緯糸(よこいと)に苧麻を使用して丸洋絣を案出、大正10(1921)年、経緯糸にともに亜麻紡績糸を使用、昭和11(1936)年には、人造絹糸(レーヨン)の台頭に対抗し、手紡糸上布の厚地風から細番手の苧麻紡績品に改良された。

 

 大正3(1914)年には、販路拡大のため、能登麻織物同業組合が結成され、新式バッタン高機2,600台が導入され、最盛期には30万葉反を織り出した。しかし、全生産額の70%が、出機方式による織り子の賃織り生産であったため、生産が伸び悩み、生産高は昭和29(1954)年には3万反、昭和49(1974)年には6000〜7000反に減少した。最盛期には140軒を数えた織元も現在は1軒だけとなっており、織り子も減少して存続が危ぶまれている。

 

3)特徴的な知恵や技術

@輪島塗

 堅牢優美な最高級の実用漆器として多くの人々に親しまれている輪島塗は、輪島の職人の丁寧な手作業によって作られている。中でも、塗りの工程は複雑さを極めるほか、作業工程は124にまで及ぶ。長い歴史の中で培われてきた職人の技が、今日の輪島塗を支えている。




 

・布着せ

 器物の強度を増すために施すこの技術は、輪島塗の重要な工程の一つである。木地に布を貼ることで、椀の縁や高台、箱ものの角など、傷つきやすい個所を補強する。輪島塗では基本的な工程であるが、現在広く流通している漆器では省略されることが多く、輪島塗のほかには、越前塗、京漆器など一部の漆器産地でしか見られなくなっている。

 

 生漆と米糊を混ぜた着せ物漆を使い、器物の破損しやすいところに麻布や寒冷紗(綿布)などの布を貼りつけ、へらや指先で布をなでつけ、完全密着させる。上級品には、器物全体に布着させる(総布着せ)。

 

 

 

・輪島地の粉

 輪島市内の小蜂山から産出する珪藻土の一種「黄土(おうど)」を蒸し焼きにし、粉砕した粉末である。この地の粉と米糊を混ぜた漆を地漆と呼び、一辺地漆、二辺地漆、三辺地漆と工程が進むごとに米糊の割合は少なくなり、地の粉の粒子は徐々に細かくなる。

 

 珪藻土は、植物プランクトンの珪藻の死骸が大量に海底に堆積し、化石化した土であり、主成分のケイ殻はガラス質で、極めて微小な殻孔が多くあるため、断熱性、ろ過性、吸収性などに優れており、地の粉として漆と混ぜ合わせると、木地に密着しやすいという効果がある。輪島塗最大の特徴といえる非常に硬くて剥げにくい仕上がりは、この下地漆を使うことにより可能となっている。


(天日乾燥)

掘り出した珪藻土を砕き、均質に練り合わせたものを餅状に成形する。それを簀子(すのこ)に載せて、風通しのいい場所で約10日間自然乾燥させる。

 

(蒸し焼き)

天日乾燥させた珪藻土を、水分を含んだおがくずと一緒に燃成炉に詰める。プロパンガスを使用し、約750度で5〜6時間蒸し焼きにする。

 

(地の粉)

粉砕したものをふるいにかけ、4種類の大きさに分級する。分級したものを、一辺地、二辺地、三辺地の塗りの段階にあわせて配合する。

 

・沈金(ちんきん)

 輪島塗の特徴の一つである美しい加飾法「沈金」は、江戸時代には確立されていた。輪島の沈金技法は、享保年間(1716〜1735年)に、大工五郎兵衛が創始したと伝えられている。また、輪島市門前町の曹洞宗大本山総持寺祖院に伝わる「鎗金袈裟箱(そうきんけさばこ)」が影響を与えたともいわれている。

 

 天保14(1843)年の輪島市鳳至町の漆器業従事者は、塗師28軒、塗師職人77軒、木地関係55軒であったのに対して、沈金・蒔絵(まきえ)は、各2軒と極端に少なく、当時の輪島塗はほとんどが無地だったと考えられる。しかし、明治2(1869)年には、沈金師だけでも、輪島市河井町、鳳至町合わせて38軒に増加している。このことから、蒔絵と比較して安価で、多くのしかも丈夫な装飾を施せる沈金技法が、当時の輪島塗に適した加飾技法として急速に発展したことが分かる。

 

・蒔絵(まきえ)

 蒔絵は、文政期(1818〜1829年)に会津の蒔絵師・安吉という人物が、輪島に移住し技術を伝えたことに始まり、幕末に浜崎宗吉によって完成したといわれている。しかし当時、庶民の実用漆器だった輪島塗にとって、御蒔絵と呼ばれるような豪華な蒔絵はあまり必要とされていなかった。

 

 その後、明治維新によって、京都、江戸、尾張、加賀などの漆器産地は、大名、武士や公家などの需要がなくなり、活力を失ってしまうが、独自の生産・販売形態を持っていた輪島塗は、維新により力を得た新興の中産階級の需要を開拓し、ますます生産を伸ばしていく。この頃には、沈金もより緻密で豪華なものとなり、蒔絵も名古屋や金沢から移住してきた蒔絵師により徐々に発達し、輪島は全国でも有数の高級実用漆器の産地となっていった。

 

A能登上布

 元来は、亀甲と十字、蚊絣で、男物だけだった能登上布だが、現在は、櫛押捺染(くしおしなっせん)や板締め、ロール捺染、型紙捺染などさまざまな手法を取り入れて、亀甲絣、十文字絣、横惣(よこそ)、縮などを生産している。昭和に入ると、紡績されたラミー糸を使い、さらに丈夫で細やかな絣模様が生まれたとされる。

 

 特に、織り幅に十文字の絣を120個から140個織り出す「絣合わせ」といわれる技術は正確で比類がない。堅牢な品質の能登上布は、「能登上布の白絣は一生もの」といわれるほどである。能登上布は、その織の精緻さゆえに近代化が困難で、手仕事で始まり手仕事で仕上げる。

 

 

 

 

・機巻き

  織に入る前に必ず行われる作業であり、人の手と目の精密さを問われる。別名「ギリ」と呼ばれる。能登上布で使う麻糸は、伸縮性が全く無く、他の織物のように織り進めながら、針を使って絣合わせをすることができず、機にかける前に経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を寸分の狂いも無くしっかり揃え、適度の張りを持たせて絣合わせをきちんとし、ギリという道具に巻きつける必要がある。

 

 湿度がないと麻糸は切れやすいため、作業中は湿度を一定に保ち、決して糸が途中で切れることのないように細心の注意を払って進めていく。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4)生物多様性との関わり

 石川県は、日本列島のほぼ中央に位置し、日本海に面し三方を海に囲まれている。そのため、標高0メートルの海岸線から高山帯に属する2,702メートルの白山山頂まで、垂直的な広がりも持つ。この高度差による植生の変化に加えて、対馬暖流と冬期の季節風による多量の積雪の影響も強く受けるため、海岸部の暖地性から高山帯の寒地性まで植生は多様に富み、寒暖両系の植物が混在、共存することが特徴である。

 

 

 


 

 

 

 輪島塗は、ケヤキ、アテ、ホオなどの天然木を木地に使い、珪藻土から作る「地の粉」と良質の漆を用いて、丹念な手作業を重ねて作られる堅牢な漆器である。輪島塗の発達・発展は、これらの天然の原材料に恵まれていたことと、漆の乾燥に必要不可欠な湿度を供給する、海岸地方の温暖な気候も適していた。さらに、農山村の次男、三男などが漆器づくりに従事するなど人的資源もあったため、産地形成が進んだ。

 

  能登上布も同様に、「機巻き」の工程において湿度がないと麻糸が切れやすくなるため、湿度を一定に保つことが求められ、北陸の冬場の湿気は作業に適していた。また、農村の女性が冬仕事として従事するなど人的資源もあったため、発達した。

 

5)里山里海との関わり

 能登は、標高の高い山がなく、ほとんどが丘陵地である。そのため、海岸部の暖地性の植物を中心に、古くから林業など人の活動による自然の改変が行われてきた。また、それに伴った植生も形成されてきた。

 

 加賀藩は、材木の保護について積極的な政策を推し進めたが、その保護政策の一つに「七木の制」がある。これは、重要樹種7種を保護樹種と定め、伐採などについて制限を加えたもので、元和2(1616)年、能登に下した御定書で、松、杉、檜、槻(つき)、栂(つが)、栗、漆の7種を指定し、伐採に制限を加えたのが始まりである。

 

 慶安5(1652)年には、松、杉、檜、槻、栂、桐、栗に改められ、その後、加賀においては、寛文6(1666)年、松、杉、槻、桐、樫、唐竹、能登においては、享保8(1723)年、松、杉、槻、桐、樫、栂、栗が定められるなど、樹種内容に変化が見られたが、慶応3(1867)年、加越能3州を通じて、松、杉、槻、檜、栂、樫、唐竹と統一された。これらの樹種は、藩有林、民有林を問わず、伐採することは許されなかった。

 

 輪島市三井の山間地には、石川県の県木であり、輪島塗の材料としても知られるアテ(ヒノキアスナロ)の美林がある。アテは、古くから能登に自生していたが、同地に植栽されたのは明治以降である。三井地域は、土質が悪く、植林に不向きな土地とされてきたが、輪島塗の生産が拡大し、近在のアテだけでは材料が不足したことから、同地で植栽したところ、アテの適地と判明し、同地の林業家が独自の植栽と造林の技術を開発し、発展した。湿気に耐え、強く美しいアテは、ヒノキに劣らない木として、輪島塗の材料のほかに、建築材でも高い評価を受けている。

 

 漆の木は、枝が折れたり、虫や動物に傷つけられた時、樹液をにじみ出して傷を治そうとする。漆とは、この時ににじみ出る樹液のことをいう。国産の漆は、塗りやすく、また仕上がりも美しいため、国産漆をどれだけ使うかが、漆器の品質の一つのバロメーターとなっている。輪島塗は、国産漆を最も多く使っている漆器として名高い。

 

 しかしながら、国産漆の生産は、価格の伸び悩み、掻取技術者の減少、生産コストの上昇等により減少している。輪島でも、漆の植林や採漆が衰退している。戦後に、安価な中国産漆が大量に輸入されたことも大きな要因である。現在では、輪島塗も、使用する漆の9割以上は、中国産に頼っている。

 

 輪島市では、昭和46(1971)年から昭和62(1987)年にかけて、漆の苗木を合計135,300本植栽したが、現在は、2,000本ほどしか残っていない。原因としては、日照不足や管理の不十分に加え、漆掻き職人の不足も挙げられる。漆の木は、管理が大変で、顔や手がかぶれるなど作業環境も厳しく、漆掻き専業では生計を維持するのが困難なこともあり、かつては輪島市内には数人の漆掻き職人がいた。

 

 今後、輪島塗のブランド力をさらに高めていくためには、地元産漆の活用も選択肢の一つである。そのためには、病気に強い苗木や効果的な植栽・管理方法の研究のほか、漆掻き職人の育成も必要である。

 


 

 

 

<参考文献>


図書・報告書

1)「日本の食生活全集 石川」編集委員会 編、『日本の食生活全集17「聞き書 石川の食事」』(325p-327p) 社団法人農山漁村文化協会
2)歴史書刊行会 編、『加賀・能登の工芸』(169p)、北國新聞社
3)『書府太郎 石川県大百科事典【改訂版】上巻』(570p、466p)、北國新聞社
4)『石川県大百科事典』(478p、1047p)、北國新聞社

 

その他

5)文化のポータルサイト 石川県新情報書府「石川の伝統工芸-百工比照- 輪島塗」
<http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/wajima/index.html>―リンク切れ
6)文化のポータルサイト 石川県新情報書府「加賀百万石の文化-古彩優美-百万石文化のあらまし 百万石の技 未指定20業種 能登上布」
<http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/intro/HTML/H_S51901.html>―リンク切れ
7)文化のポータルサイト 石川県新情報書府「WEBマガジン 輪島塗」
<http://shofu.pref.ishikawa.jp/portal/columns/data/wajima-colum/genboku/
genboku.html>―リンク切れ
8)石川県ホームページ「石川の動植物(1.植物)」
<http://www.pref.ishikawa.lg.jp/sizen/kankyo/3.html>
9)ウィキペディア「輪島塗」
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%B3%B6%E5%A1%97>
10)能登上布 山崎麻織物工房
<http://www8.ocn.ne.jp/~notojofu/>
11)北國新聞ホームページ「ホットニュース 2011年1月18日」
<http://www.hokkoku.co.jp/subpage/HT20110118401.htm>―リンク切れ